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2011.04.19 科学不信の碑
1914年(大正3年)1月12日午前10時5分。
鹿児島県の桜島の噴火、後に言われる大正大爆発が始まった時刻です。
死者・行方不明者58人を出したこの災害を記憶にとどめるように、いま、鹿児島市立東桜島小学校近くに一つの石碑が残されています。

 「大正三年一月十二日、桜島の爆発は安永八年以来の大惨禍にして、全島猛火に包まれ、火石落下し、降灰天地を覆い、光景惨憺を極め、八部落を全滅せしめ、百四十人の死傷者を出せり、その爆発の数日前より、地震頻発し、岳上は多少崩壊を認められ、海岸には熱湯湧沸し、旧噴火口よりは白煙を揚がる等、刻々容易ならざる現象なりしを以って、村長は、数回測候所に判定を求めしも、桜島には噴火なしと答う。故に村長は、残留の住民に、狼狽して避難するに及ばずと論達せしが、間もなく大爆発して測候所を信頼せし、知識階級の人却て災に投じ、漂流中、山下収入役、大山書記の如きは終に悲惨なる殉職の最後を遂ぐるに至れり。
 本島の爆発は古来歴史に照らし、後日復亦免れざるは必然のことなるべし。住民は理論に信頼せず、異変を認知する時は、未然に避難の用意、尤も肝要とし、平素勤倹、産を治め、何時変災に遭うも路頭に迷はざる覚悟なかるべからず。
大正十三年一月 東桜島村」

 住民の間で不安が広がり始めたのは、前兆現象が頻発し始めた1月10日夜からでした。、地元の行政関係者が鹿児島測候所(現・鹿児島地方気象台)に問い合わせたところ、地震については震源が吉野付近(鹿児島市北部)であり、白煙については単なる雲であるとし、桜島には異変がなく避難の必要はないとの回答だったといいます。しかし、翌1月11日になると住民の中に避難を始める者が出始めました。桜島東部地域の青年会が中心となり女性、子供、老人を優先に牛根村、垂水村方面への避難が進められます。また、桜島北部でも青年会が中心となって鹿児島湾北部の重富、加治木町、福山村方面への避難が進められましたが、鹿児島市街地に近い桜島西部の横山周辺は測候所の見解を信頼する者が多かったため避難が遅れ、1月12日午前の噴火開始直後から海岸部各所に避難しようとする住民が殺到し大混乱となりました。
 
 この碑は別名「科学不信の碑」とも呼ばれ、いまも、桜島防災を語るときにはしばしば取り上げられています。
今日の朝刊に、過去二回にわたり壊滅的な津波被害を受けた岩手県宮古市重茂地区の石碑のことが取り上げられていました。「此処より下に家を建てるな」と刻まれたこの石碑は、1933年の昭和三陸津波の後、建てられたもので、集落が受けた過去の津波被害をつづりながら、低地での住居建築を戒めています。今回の津波は、その石碑の前で止まり、この教えを守った集落の人たちが救われた、という記事です。

 観天望気ではありませんが、長い暮らしの積み重ねの中で地元の人たちが体験した悲惨から学び、語り継いできた教訓を想う時、「科学不信」という言葉が一段と重みをもって迫ってくるような気がします。
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