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今村明恒…という人物をご存じでしょうか。

 この地震学者の名前を教えていただいたのは、鹿児島大学の総合博物館教授の大木公彦さんでした。
 今村明恒は1870(明治3)年、薩摩藩士・今村明清の三男として、いまの鹿児島市に生まれています。21歳で東京帝国大学物理学科に進学、1894年に大学院に進学して、発足間もない地震学講座で研究を始めました。その頃、地震学講座は大森房吉が教授として采配を振るっていました。今村より二歳年上で、大森式地震計の開発者として知られています。

 この頃、日本列島各地で地震が相次いでいました。1891(明治24)年10月には日本の内陸で起きた最大の地震である濃尾地震が発生。東海地方を中心に死者7273名という被害を出しています。さらに、首都圏でも1894(明治27)年6月に直下型の地震が起きて、東京で24人、横浜と川崎で7人の死者が出ました。

 人々が地震への不安を募らせるなか、今村明恒は地震学者の一人として、研究の成果を世の中に理解して貰い、震災の軽減を図ることに熱心だったといわれます。その今村が雑誌『太陽』に「市街地における地震の損害を軽減する簡法」という論文を発表したのは1905年のことでした。その内容は、都市の地震災害、とくに火災の危険を警告し「安政江戸地震から50年を経た。次の大地震までには多少時間があるだろうが、江戸に大被害をもたらした1649(慶安2)年の地震の54年後に1703(元禄16)年の元禄地震が発生した例もあることだから、災害予防のことは一日も猶予出来ない」と述べたものだった。

 今村の論説は、当初は冷静に受け止められましたが、約4ヶ月後に新聞が「今村博士の大地震襲来説、東京市大罹災の予言」とセンセーショナルに取り上げてから大きな騒ぎになったと伝えられています。今村論文の内容は、過去の東京の地震災害を例に出して、「50年以内にこういった大地震が繰り返されることを覚悟しなければならない」というものでした。「もし大地震が起きて水道鉄管が破壊されたら、帝都の消防能力は全く喪失」「東京市内各地の被害推測をした」「全市消失なら10万20万の死人も起こりうる」とも記して防災対策の充実を訴えています。

 今村の上司だった大森房吉は、火消しに奔走することになります。寄稿や講演などで今村説を「東京大地震の浮説」として非難を繰り返しました。大森の講演や新聞寄稿はいつも今村説の非難から始まり、「東京には今後何百年も大地震はないだろうが、もしあったとしても大火災を起こすことはないだろうし、10万の死人を生ずるというのは、まったく学術的な根拠のない浮説にすぎない」と述べていたといいます。

 ところが、1923(大正12)年9月1日、今村が18年前に警告していたことが起きたのです。マグニチュード7.9の直下型地震(M7.9)が首都圏を襲います。発生した火災は東京市のほぼ全域を焼き尽くし、死者行方不明10万人という大災害となりました。世に言う関東大震災でした。「震災の大部分は火災である。地震の被害は火災が起きることで激増する」という今村の主張通りのことが起きてしまったのです。

 当時、大森は学会でオーストラリアに出張中でした。地震の報を受けて急遽、船で帰国中に、脳腫瘍で倒れます。今村は横浜まで大森を出迎えに行きましたが、その際、大森は息も苦しげに「今度の震災については自分は重大な責任を感じている。譴責されても仕方がない」と今村に謝り、「今後の地震研究は君に託す」と語ったともいわれます。間もなく大森は世を去りました。

 関東大震災を予測した地震学者・今村明恒のお話。彼の予告の根拠は周期説だったようですが、もし、彼の説を当時の政府や東京市が受け入れて、少しでも防火、延焼対策などを講じていれば、関東大震災の様相は少しは違ったものになっていたのでしょう。

 ちなみに、今村は大地震を誘発した大正の桜島大爆発直後にも故郷の鹿児島に入り、埋立地の液状化現象を指摘、「今後、錦江湾の埋め立ては慎重に」と提言していたそうです。

 それにしても、ここ鹿児島から、こうした地震学者を生んでいたことは、もっと知られていいことなのかもしれません。
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