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 後輩からご覧ようなプレゼントをもらいました。誰だか、わかりますか?
画像が不鮮明でわかりにくいのですが、我が故郷の傑物・高杉晋作のミニチュアです。
こんな珍しい一品、どこで手に入れたのか、かの後輩も覚えていないそうですが… 

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 高杉晋作、東行と号した幕末維新の長州藩の謹皇討幕の士です。
 一九歳のとき、松下村塾に学んで久坂玄瑞とともに松陰門下の双璧と称せられ、のち江戸に出て昌平黌に学びました。四国連合艦隊の下関砲撃に際しては、藩の正使として和議を結び、その後、日本初の平民部隊(プロレタリアート軍?)である奇兵隊を創設し、討幕に逡巡する長州藩の正規軍を打ち破ります。

 のち、胸を病み、筑前の尊王派の尼だった野村望東尼に看取られて、下関は吉田の東行庵で28年間の生涯を閉じますが、その際、辞世として高杉が詠んだ上の句「おもしろきこともなき世におもしろく」に野村が「すみなすものは心なりけり」と続けたと言われています。「おもしろきこともなき世」という説(司馬遼太郎など)もありますが、「世」というのが、どうやら正解らしい。直筆が残っていないので、何ともわかりませんが、いずれにしても、高杉らしい辞世の歌ではあります。
私自身、故郷に帰るたび、頻繁に下関・吉田にある東行庵を訪ね、晋作の奔放で溌剌とした生き方を偲んだものでしたが、ここ数年は機会がないままです。

 ところで、この晋作、幕末の瞬時を駆け抜け、若くして逝った清廉な風雲児のイメージですが、実際は公金使い込み、遊蕩三昧の猛者だったようです。当時、長州藩は村田清風を筆頭とする財政改革プロジェクトチームの働きにより、藩の年収の22倍にあたる財政赤字を解消させただけでなく、巨額の蓄財まで成し遂げていました。こうした経済力が背景となって、長州藩は京都で大暴れし、幕府との戦いで勝利をおさめることになるのですが、公務を名目に藩士らが京の街で公金をふんだんに使いまくったことは、当時、京都の料亭などから「長州様」と呼ばれていたことからもわかります。

 その中でも高杉晋作のお金の使いっぷりは群を抜いていたようです
長崎で藩に無断で2万両のオランダ蒸気船を注文したり、海外視察を名目に藩から1千両を持ち出して、結局、すべて長崎で飲み食いに費消したり、枚挙に暇がありません。ちなみに当時の1千両は今の数千万円だそうです。20代の若者がこれだけの藩のお金を簡単に使ってしまうあたり、やはり、晋作は普通の感覚ではありません。というか、わが父祖の地ながら、長州藩のコーポレートガバナンスはどうなってたんだろうと…笑。

 とはいうものの、本人には金への執着は全くなかったようで、奇兵隊を指揮して保守的な藩政府を倒して政権を握った時は、「人というものは艱難を共にすることはできるが、富貴を共にすることはできない。だから僕は外国へ行く」という名言を残して長州を去っています。

 まぁ、彼に小物扱いされていた山形有朋、伊藤博文、井上馨あたりは、明治 新政府で賄賂、利権あさり、たかりなど、汚れ、堕落の限りを尽くしていますが、いずれも「高杉さんはこんなもんじゃなかった」と口をそろえて言うほどだから、晋作のスケールの大きさがわかろうというものです。

 最後に晋作が残した言葉から…
 
 「先が短いなら短いなりに
 僕は面白う生きたい
 派手な打ち上げ花火を打ち上げて、消えていく…
 それが高杉晋作の生き方ですき」

 国会中継を見ながら、なんとチマチマとした政治家の顔ばかりなことよ、と溜息をつきつつ、久しぶりに晋作を思い起こさせてくれた後輩に感謝です。

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