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2012.01.18 明治の男
 いやはや、開いた口がふさがらないとは、こうした時にいうのでしょう。

 11人が死亡、多数が行方不明になっているイタリアの大型クルーズ船の座礁、浸水事故です。イタリアのメディアによると、この船の船長は島の岩場から携帯電話で港湾当局の係官に「船を離れた。船が沈みそうだから」と話していたといいます。事故発生から、わずか約3時間後のことで、船内ではまだ多数の乗客が救助を待っていました。係官が「船に戻ってほしい」「家に帰りたいとでもいうのか」などと迫ると、船長は「大丈夫だ。戻る」と答えていましたが、結局、船に戻ることはなかったそうです。

 思い出すのは、今から102年前、明治43年4月15日、私の故郷でもある山口県の新湊沖で帝国海軍の第六潜水艇が半潜航訓練中に沈没、佐久間勉艇長以下14名が殉職した事故です。二日後に艇は引き揚げられましたが、その際、佐久間艇長の遺書が見つかり、全世界に大変な反響を呼びました。

 かいつまんで、当時の状況を記すと、艇内では、ほぼ全員が持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた者も潜水艇の修繕にあたっていました。佐久間自身はガスが充満して死期の迫る中、明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、この事故が今後の潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次のような遺言を書いています。

「謹ンデ陛下ニ白ス
我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ」
 
 その後、12時30分の自身の状態を、そして「12時40分ナリ」と記したのを最後に絶命しています。
当時、海外では、同じような潜水艇事故が起きると、脱出しようとした乗員が出入り口に殺到し、最悪の場合互いに殺し合う等悲惨な事態が発生していたそうです。それだけに、佐久間と乗員の最後の姿勢は大きな感銘を与え、各国から多数の弔電が届いたといいます。

 佐久間艇長は、海軍兵学校を卒業、この時、弱冠30歳でした。今でいうと、駆け出し社員に毛が生えたような年齢です。が、佐久間の凄みさえ感じさせる覚悟と責任感…「坂の上の雲」の秋山兄弟ではありませんが、平成の御代の草食系男子を見聞きするにつけ、明治の男たちの気骨はどこへ霧消してしまったのか、と思うことです。


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